まるで夢を見ているかのような幻想に、浸ってしまいそうだ。
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キラは恐怖に脅えていた。
室内には微かに開いたカーテンの隙間から橙の陽光が差し込み、今が夕時であることを容赦なく知らしめ
る。
先刻彼女が眠りに就いたのが正午位であったため、優に3時間は経過している。
その証拠に、傍らの目覚まし時計が示すのは午後4時少し前だ。
少し靄のかかったような思考から一変、彼女は飛び起き、まるで恐れ戦くように震えだした。
「あ・・・あ、イザ―ク・・・・・」
絞り出された声音はやはり誰に聞かれることもなく、空しく彼女の鼓膜を打つばかりであった。
寒さに凍えるかのように震える両腕を対の肩に回し、縮こまって固く眼を閉じる。
一体自分は何をしているのだろうか。
折角、望みが叶えられると思ったのに。
折角、願い乞うた幸せを手に入れられると思ったのに。
今までどこか冷たく接してきていたイザークが、始めて労わりの言葉を言ってくれたのだ。『無理をすると
悪化するぞ』と。
それなのに、この体たらく。全くもって阿呆である。
まるで流水のように掴みどころのない幸せがすり抜けて消え去っていくような感覚に、キラはただ恐怖と不
安を感じていた。
しかし、いつまでもそうしているわけには行かない。
例え彼がキラに愛想を尽かしてラクスの元に行ったのだとしても、世間体を無視できずにまたこの屋敷に帰
ってくるはずだ。
すぐにとまではいかないだろうが、きっと彼は帰ってくる。
キラはそれを切に願う。
そうだ。彼は優しくしてくれた。まるで心変わりでもしたかのように、優しく甲斐甲斐しく看病をしてくれ
たではないか。
ここで信じなければ、自分はきっと彼を裏切ることになる。
惚れたのは他でもない、キラ本人なのだ。
だからこそ、どんなに彼が裏切っても、どんなに彼が他の人を好きになろうとも、自分だけは信じ続けなけ
ればならないのだ。
そう思い至るや否や、彼女は一度瞑目した。
そしてそのすぐ後、扉がそっとノックされた。
「奥様、よろしいですか?」
メイドの声だ。キラはス、と眼を開けてそちらを見やる。
「ええ、入っていいわ」
それを聞くが早いか、無遠慮に開かれたドアからメイドの姿が現れる。
「そろそろお目覚めのお時間かと思いまして。・・・お食事は如何なさいますか?」
その言葉に、キラは思わず飛びつく。もしかしたら、イザークが指示してくれたのかもしれない、と。
「いただくわ。ところで、イザークは?先程から姿が見えないのだけれど・・・」
言いながら殊勝に眼を背けて俯くと、メイドが口を開く気配が伝わってきた。
「旦那様は奥様がお休みになられてしばらく後に、お仕事が気になるとのことで、お出かけになりました」
直ぐに帰ると仰せになっておいででした、と淡々と付け足して目礼する。
イザークがいないのは、仕事が気になったからのようだ。
それにキラは少し、安堵を覚えた。
少なくとも、自分を見捨てた訳ではないのだろうから。
その証拠にこうして、メイドが好いてはいない主人の妻の食事の世話を焼いてくれているのだ。
普段ならばきっと、こちらから出向かなければならなかっただろうところを、メイド自らが来てくれたという
事実は、キラにとっては浮足立つような嬉しさを感じるところである。
「そう。ありがとう、わかったわ。じゃあ、食事の準備ができたら教えて」
キラは話をそう区切らせて、アメジストのような輝きを持つ瞳で出て行くように訴えた。
夫がいない理由を聞き出せたので、もうメイドに用はない。それに、彼を待っていなければならないのだ。
腹ごしらえも必要だろう。
いつものように浅くも深くもない丁度良い具合の礼をしたメイドが去っていくのを後目に、彼女は伸びをし
て四肢を伸ばす。
しばらく寝ていたせいか、少し身体が軋んだ。
だが、それでも気分は、冬の晴れた空のように晴れ晴れとしていた。
目も完全に覚め、さてどうしようかと、キラは漸く部屋を見回した。
そういえば、どこかいつもと違うような。
一体、この違和感はなんだろうか、と思い小首を傾げる
「どこ、ここ・・・」
思わずそう声が漏れるのも無理はない。何せここは、彼女の見慣れた部屋ではないのだから。
よくよく見てみると、彼女の身体に掛けられていた布団は紺色で、シーツも然り。キラの部屋の物は白を基
調としたもので、まるで違う。
それに、カーテンも暗色を使用していて、どこか重々しく、少ない家具から見てとれるのは、高級感を思わ
せるシックなもの。言うなれば、男の部屋のような。
そうして、気づく。
「もしかして、ここは、イザークの・・・?」
まさか。そんなはずはない。
今まで、彼の部屋で寝たことなどただの一度もないというのに。そもそも、部屋にだって片手で足りるほど
しか入ったことはないのに。
「でも、なんで?」
口をついて出る疑問に、更に首を傾げる。
キラには解せないことがあるのだ。
そう。彼はもともと客間で寝起きしているのだ。普通、病人は寝室に運ぶのではないか。
玄関から部屋が近いからかと一瞬思ったが、それも違うだろう。何せこの客間の方が、遥かに遠いのだか
ら。
全くもって、謎である。
兎にも角にも、イザークが帰ってきたらまず聞いてみよう。
ぐるぐると廻る思考に終止符を打ち、キラは一つ溜め息を吐いた。
キラは知らない。自室に置き忘れた携帯電話にメールが届いたことも。そして、刻一刻と近づく暗闇ですら
も。
陽光を反射する銀糸のような繊細な髪が、歩を進める度に揺れる。
つかつかと踵を鳴らし、イザークは高層のホテルのエントランスを潜った。“入り口”とは言え、所謂あまり
目立たない“裏口”からではあるが。
コック帽を被った白装束の人々が忙しなく動き回るのを横目で見つつ、彼らの邪魔にならないように颯爽と
厨房の隅を歩いたイザークは、そう時間もかからないうちにそこを抜け出た。
気品を感じさせる刺繍が施された赤絨毯を踏みしめながら、できる限り人目を避けて風を切る。
そうして長い廊下をしばらく進み、右手にあるエレベータの横をすり抜けて従業員用のひっそりとした階段
を目指す。
あまり光源がなくどこか薄暗いそこは、ひんやりとイザークの肌を刺激した。
それに構わず、彼は下る。目的地は中庭。そこに愛する人、ラクスがいるのだ。
構造上、入口は正面も裏側も2階相当の位置にあるため、1階の中庭に行くためには一度階段を下りなけれ
ばならないのだ。
イザークがこのホテルを彼女との逢瀬の場に使うには、理由があった。
それというのも、ここはジュール家が経営するものの一つであるためだ。
なので当然、人との関わりも最小限に抑えられるし、口止めも容易い。それに何より、ここは二人の思い出
の場所なのだ。
イザークは氷のようなアイスブルーの瞳をす、と細めた。
歩く速度は弛めず、彼は前を見据えたまま昔を懐かしむ。
あれは確か、このホテルが完成した時。その披露目のパーティーでのことだった。
このホテルは大規模且つ多機能なシティホテルとして凡そ6年前にオープンした。
記念に開かれたパーティーはこれもまた大規模で、別館2階にある大きな会場を使い、多くのVIPを呼んで
盛大に執り行った。
その招待客の中に、ラクスがいたのだ。
これまでにない大きさのホテルであるためにその分招待客も多く、接待に疲労を積み重ねたイザークは少し
の休憩を欲してバルコニーから延びる階段を下り、広い中庭に出た。
設計時から母より聞かされていた庭の光景はすんなりと彼の眼鏡にかない、木々の多いそこは正に恰好の隠
れ家である。
枯れたものの混じった葉は暗がりに黒々となり、その合間から漏れる灯りはオレンジ色で暖かさを感じる。
ちらりとそれを見やったイザークは、しかし歩を弛めることなく奥へ奥へと進んでいく。よくは覚えていな
いが、まるで何かに導かれているかのような感覚だったのはなんとはなしに記憶の奥底にあった。
そうして歩いていると、遥か遠くの方から何かが微かに彼の耳を掠めた。思わず足を止め、耳を澄ます。
季節は秋の終わり頃。冬に程近いが、何かの虫が自らの存在を主張していた。
そんな中、イザークはどんな小さな音も聞き逃さないという体で耳を欹てる。
すると、どうにも先程彼の耳を掠めた音は、人の声のようだ。それも、女の歌声である。
不思議に思い眉間に皺を寄せたイザークは、再び歩を進め始めた。
このホテルには、音楽などを催すホールが本館とは別に存在する。しかし、歌声の主はそれとは全く逆方向
にいるようだ。
それに、招待客には歌手などと洒落た人間はいないはずだ。把握していないだけかもしれないが、それでも
このような大仰なパーティーにまで来る人間に、隠れて歌うなどと言う酔狂さなどはないだろう。
イザークは怪訝な思いを募らせ、徐々に歌声の主に近付いて行った。
あとがき
次回、イザラク過去話が続きます。もう少々お付き合いくださいませ。
そしてカガリ好きさん注意です。
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