君の歌声は今も尚、耳朶を擽り続けているかのように鮮明に残る。



















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 先程から聞こえてくる歌声を辿り、イザークは只管歩く。
 知ってはいたが、このホテルの中庭は存外に広い。少し息が上がってきたくらいだ。
 それでも徐々に大きくなる音に、少し救われた気分だった。
 ガサリ、と瑞々しさを忘れた枯葉が彼の足に踏みつけられて鳴る。一際大きく響いた音に驚き思わず足を止めて
しまうが、それもつかの間、イザークはふと顔を上げて少し前方を見やった。
 そうして漸く見えた、暗がりでも浮かび上がるくらい明るい桃色。
 途端、今まで流れるように聞こえていた美しい歌声がプツリと止んでしまい、イザークは残念そうに眉を顰めた。
 徐に振り返る人影。その豊かな髪は彼女の背を覆い、暗がりに深い青色をした瞳は真っ直ぐにイザークを見据え
ていた。すらりと伸びた脚は揃えて斜めに流れ、その膝の上にもまた揃えて両手が置かれていた。
 ピンと張った背筋が見せるその様は正に、令嬢のそれ。イザークにはまるで高嶺の花のようにさえ感じられた。
 「・・・あなたは?こんなところで一体何を?」
 脳裏に浮かんだ疑問は他にもあるが、咄嗟にこのくらいしか出て来ずに彼はらしくもなく口籠ってしまう。
 「まあ。私としたことが、ご挨拶が遅れてしまいましたわね」
 本来ならば招待客が開催者、そしてその近親者に挨拶に向かわねばならない所を、そんなものは関係ないとばか
りにこのような場所で歌などに興じているという現状。
 ごめんなさいと言葉を続ける彼女は、片手を口元に添え、眉尻を下げ、心底申し訳ないという体である。
 普段のイザークならばふざけるなと怒鳴り散らすところだが、今日の彼は違うらしい。
 「いや、気になさるな」
 一つ頭を振って、別にどうということはないとばかりに鼻で笑って見せた。
 「ありがとうございます、イザーク・ジュール様。私はラクス・クラインと申します」
 クライン、というファミリーネームを耳にした途端、彼の口角は一気に下がり、眉間に皺を寄せた。
 「クライン?もしや、あのクライン病院の?」
 語尾は疑問形であるが、しかしその実内心に確信を抱いていた。
 今日このシティホテルは、披露目のパーティのみに使われている。そしてそこにいる人間といえば、ジュールと
関わりの深い企業を始め、様々な分野・業界で活躍している人間も数多く招いている。そのような人間たちの中に
在れば、自然とその名には『あの』という代名詞をつけることができるのだ。
 というのも、クライン病院と言うのは国内で最も大きいものであり、業種問わず重役が多くこの病院を利用する
ため、自然と彼の耳にもその名が入ってくるのだ。
 大学病院ではないが、名のある研究者が雇われ、数々の困難な手術も成し遂げた優秀な医者も多いと聞く。新人
の育成にも力を入れているということで、多くの医大生がそこで働くことを夢みる由緒ある総合病院だ。
 勿論経営も安定しており、そこの院長であるシーゲル・クラインという男も人望厚く、そうした面を含めてもと
ても良い病院だとイザークは聞き及んでいる。
 そのような環境にある女性というだけで株が上がりそうだと何ともなしに感心していると、彼の目の前に立つ少
女はまるで、色とりどりの花を瞬時に咲かせるかの如く夜闇でも美しく輝くアクアマリンの瞳を更に煌めかせた。
 何事だ、と怪訝に思う間もなく、ラクスはほんの少しだけ小首を傾げ、自身の胸の前で陶器のように白く滑らか
な両手を重ね合わせて見せた。
 「まあ!クラインの名をお聞きしたことがありまして?」
 まるで素っ頓狂な反応ではあるが、彼女の歓喜に綻ぶ満面の笑みはイザークの心を鷲掴んだかのように、彼の視
線を捉えて離さない。
 「あ、ああ。国内最大級の総合病院だと聞いている。知らない方が可笑しいだろう?」
 少々呆気に取られながらも、普段より矜持の高いイザークだ。すぐに持ち直して彼女と相対する。
 一方ラクスはと言うと、未だにその美しい笑顔を消さずにイザークを見つめていた。
 「国内最大級とはいえ、優れた病院は他にも沢山ありますわ。それに、ジュール様はとても有名人でいらっしゃ
いますのよ?ご存じであられたこと、とても光栄に思います」
 そう言うや否や、徐に両手を下げて恭しく礼を取る姿立ち居振る舞いは美しく、イザークはまるでつられるよう
に礼を返した。
 「こちらこそ、貴女のような聡明な方に遇えて光栄だ」
 イザークは思わずついて出た言葉に内心で頷いた。
 確かに、ラクス・クラインという少女は一見してふわふわと浮足立っているかのようにも見えるが、その実少し
でも会話をしようものなら彼女の内面から湧き出でる聡明さを感じずにはいられない。
 そのようなことを考えつつ、イザークは、いつもはなるべく避ける世間話を、彼女とならしてみるのも悪くない
と思った。
 「ところで、貴女はここで何を?歌を歌っておられたように御見受けするが・・・」
 話を変えたにもかかわらず、ラクスは一片も表情を崩すことなく口を開いた。
 「ええ。私、歌がとても大好きなんです。歌っていると、何か嬉しくなるような、気分が晴れやかになるような
・・・幸せな気持ちになるんです」
 「『幸せな気持ち』?歌を聞いている方ではなく、歌っている貴女が?」
 ふと浮かんだ疑問を隠しもせず声に出すイザークに、ラクスは目を細めて艶やかな笑みを深くした。
 「はい。以前、お父様からお聞きしたことがありますわ」
 そう言って彼から視線を逸らし身体ごと向きを変えたラクスは、今まで座っていた木のベンチからゆっくりと立
ち上がった。
 そしてスラリと伸びた両腕を背中の方に持っていき、後ろで両手を組む。
 問うような視線を感じつつも、彼女は気にせずにふわりと笑った。
 「人に幸せを感じてもらうにはまず、自分自身も幸せでなければならない」
 まるで過去を振り返るかのようにどこか遠い目をした彼女に、イザークはまたしても感心してしまう。
 「私はそれを聞くまで、ただ自己満足の為にだけ歌っていました。歌を乞われればただ歌い、聴衆が現れればや
はりただ歌う。それは私にとって、当たり前のことでした」
 そう言うと彼女は眉尻を下げ、しかし口元はそのままなのでその美麗な面は苦笑を浮かべる。
 「けれどそうしているうちに、心の中に何か大きな穴が空いたような空しさを覚えるようになりました」
 苦しそうな、寂しそうな、様々な感情が綯い交ぜになったような彼女の表情に、聞き役に徹していたイザークは
思わず眉根を寄せた。
 「空しさ・・・?」
 鸚鵡返しに問うと、今まで在らぬ方を見やっていたアクアマリンの瞳が、真っ直ぐに彼に向けられた。
 「はい。何をしても、どんな歌を歌っても、ずっとそれは纏わりついていました」
 後方にやっていた両手を再び前にもってきて、両の掌を胸に押し当てる。まるで不安に押し潰されそうな心を守
るかのように。
 「歌う度に感じる空しさに、私は耐え切れずお父様に相談しました。そこで先程の言葉をお聞きしたのです」
 目から鱗が零れたような心地でしたわ、と続けるラクスの表情はどこか晴れやかで、いっそ潔ささえ感じさせる。
 その笑顔は思わず、聞き手にまわっていたイザークの口元を綻ばせた。
 「それでは貴女の歌声は、きっと幸せに満ちておられるのだろうな」
 あまりに嬉しそうに言うものだから、思わずそんな言葉が漏れる。対するラクスは一瞬目を丸くしたが、すぐに
また綻ぶような笑顔を浮かべた。
 「お聞きになりますか?イザーク様の為に、今宵限りの中庭コンサートを開きましょう」
 冗談交じりではあるが、そう言って膝を曲げた彼女に、イザークは笑みを深めて一つ頷いた。
 「ああ、是非にもお聞きしたい」
 この場に来るまでに聞こえてきた歌声。その正体が垣間見えるチャンスを、逃す理由はない。
 イザークはすぐ傍にあった木材で作られたアンティーク調のベンチに腰掛けると、彼女のアクアマリンを見つめ
た。
 それに答えるかのようにもう一度礼を取ると、次に見せた彼女の表情はまるで今までと違い、凛とした光をその
瞳に宿して口を開いた。
 ここには彼女とイザークしかいないためバックグラウンドミュージックはないが、それでもはっきりとした音程
を保つ彼女の音感は素晴らしいものであった。
 はっきりと、しかし優しく響く詞は、イザークの耳朶を擽りやがて記憶に刻まれていく。
 鈴の音を模したような軽やかな歌声は、しかし円やかで触りがよい。
 まるで彼女の歌声に呼応するように、微かに木の葉を揺らすそよ風はどこか冷たく、けれど彼の頬には心地よかっ
た。
 そこで初めてイザークは、自身の頬が熱を持っていることに気付いた。無論、体調が悪いわけではない。
 その理由を彼が本当の意味で自覚するのは、もう少し先の話。










 メイドの声に一つ返事をすると、キラは徐にベッドから抜け出た。
 未だ熱は下がりきっていないため身体は少々軋むが、昨夜ほどではない。
 ベッドに腰掛けたまま素足をそっと床につけると冷えたカーペットの感触があり、キラはどこか高揚すら覚えた。
 まさか、イザークのベッドで眠ることになろうとは。結婚してから今まで、予想すらしなかった。
 なんだか嬉しくなって、思わず口元が綻んでしまう。しかしすぐに気を引き締め、徐に顔を上げて立ち上がろう
とする。しかし、久しくとっていない姿勢に身体が悲鳴を上げたのか、脳味噌がぐわりと揺れる心地がする。
 慌てて少し乱れたシーツの上に手をつき体勢を整えると、一つ息を吐いて再び腰を伸ばした。
 食事をしてイザークの寝具を汚してしまったら大変だ。何よりキラ自身が自分を許せない。その為、食事はこの
部屋に備え付けられているコーヒーテーブルで取ろうと考えていた。
 「奥様、手をお貸ししましょうか?」
 見兼ねたメイドが声をかけてくるが、キラは一つ頭を振って否とした。
 「いいわ、大丈夫」
 折角の申し出があっさりと断られてしまったので、メイドは思い切り眉を顰める。だが、すぐに気を取り直して
食事を乗せたトレイをベッドから少し離れたテーブルに置いた。
 その様を見つめながら自身の腹具合を確かめてみる。正直言ってあまり食欲は湧かないが、常にないメイドの行
動にイザークの影を見出した彼女は、少しでも食べなければと一歩足を踏み出した。
 しかしそれも束の間、扉から聞こえたノック音に反射的にそちらに目をやる。
 同時に、僅かに首を傾げたメイドがそちらに向かった。
 微かな扉の開閉音。小さく交わされるメイドと、恐らくこの家の執事のものであろう声音。キラの心中に疑問と
困惑が浮かぶ。
 「?どうか・・・」
 どうかしたの、と問おうとした唇は、そんな二人の間をすり抜け、無遠慮に部屋に侵入した女性をアメジストに
映した途端に静止する。
 まるで時間が止まったかのよう。否、昔に戻ったかのようだった。
 「久しぶりだな、キラ。体調が悪いと聞いて、勝手に上がらせてもらったぞ」
 その女性は、肩に届くか届かないか程の微妙な長さの金髪に、日輪のような強い眼光を持つ黄茶の瞳。そして何
より、キラに瓜二つの造作。そう、キラのこの世でたった一人の姉妹。双子の姉だった。
 「・・・あ、カ・・・ガリ・・・」
 いつの間にか震え出した手。
 咄嗟にキラはそれを隠そうと左手を右腕に掛けるが、カガリには無意味のようで苦笑を浮かべている。せせら笑
うかのように、膝が震えているのがわかった。
 「何をそんなに震えているんだ?」
 傍から見ればその表情は優しく、柔らかに映ったであろう。しかしキラにとっては恐怖以外の何物でもなかった。
 「い、いえ、あの・・・」
 頭の中が混乱して、何を言えば良いのかわからない。自分の一言で彼女の逆鱗に触れたら、自分の一挙一動が彼
女の不快を煽ったら。
 「脅えることはないさ。私はただ、挨拶をしに来ただけだからな」
 そうして目を伏せることで、キラから視線を外す。それが偶然か必然かはカガリ本人でしかわかりようもないが、
キラにとっては救われるような気持だった。
 「あ、挨拶・・・とは?」
 未だ震える声音を叱咤しつつ、漸く浮かんだ言葉を吟味しながら口に出す。
 だがその途端、キラは凍りついた。
 背筋が、寒い。目が、離せない。先程よりも更に強く、身体が震え出すのがわかった。
 彼女の眼前には、まるで恰好の獲物を見つけた獰猛な虎の双眸のような、鋭く煌めく眼光があったのだ。
 ニヤリと片方の口角を釣り上げ嘲笑を浮かべたカガリに、キラは最早呼吸すら忘れて喘ぐように口を開閉させた。
 その様が余程気に入ったのか、ククク・・・と低く唸るような笑い声。次いで零れた言葉は、キラの精神を崩壊
させそうなほど、衝撃的だった。
 「二週間後、こちらに越してくることになった」
 今にも、身体が崩れ落ちそうだ。それでもキラは、自身を奮い立たせた。
 このままではいい笑い物だ。
 「何故、です?お父様のお手伝いをしていたのでは?」
 冷や汗を額に滲ませながら、カガリに対抗するように彼女を見つめる。
 しかしそれがいけなかったのか、目の前の女性から笑顔も表情ですらも一気に消え失せた。徐々に色を失う手を、
扉の傍からメイドと執事がただ黙って見ていた。
 「『お父様』?もうお前の父ではないだろう」
 ビクリ、と震える肩。瞠目するアメジスト。
 「だいいち、お前が捨てたんじゃないか、『お父様』を」
 違う、と言いたかった。
 捨てたのではない、と反論したかった。
 けれど言葉は出ず、喉の奥に燻ったままだ。
 「親切なヤマト夫妻の優しさに付け込んで、養子にまでしてもらって」
 矢継ぎ早に迫りくる言葉。
 キラの声は、最早ない。
 「お前はまた、裏切るのか?」
 婚姻前に子どもを作り、イザークを脅し、結婚まで。
 キラを引き取ってくれたヤマト夫妻が、養子とはいえ自分たちの娘が所謂『出来ちゃった婚』をしたことに、何
も感じていないはずはない。
 散々迷惑をかけておいて、散々裏切っておいて、お前はまたヤマト夫妻を裏切るのか、と。
 カガリの黄茶の瞳は真っ直ぐにキラの瞳を射抜く。
 キラの身体はとうに限界を超え、敷き詰められたシックな絨毯に濁ったアメジストを手向けるかのように、その
身体ごと沈み込んでいた。
 その様に気を良くしたのか再び笑みを浮かべると、カガリは徐に腕を組んだ。
 「まあ、いい。私は痛くも痒くもないからな」
 ほら、立てよ・・・そう言って少し日に焼けた手を差し出すカガリ。しかしキラは動こうとはしなかった。
 それを意に介することなく一つ溜息を吐いて身体を退きジュール家の執事を見やると、先程まで見せていた人好
きする笑みを浮かべた。
 「さて、私はそろそろ帰るよ。大切な“妹”の顔も見れたしな」
 ふい、と一瞬視線だけをキラに向けるが、項垂れたままのジュール家の奥方は俯いたまま動こうとしない。
 困ったものだとばかりに苦笑を浮かべると、カガリはさっさと踵を返し、歩き始めた。
 速やかな彼女の行動にしばし呆気に取られていた執事は、しかしすぐさま気を取り直して扉を押さえ、廊下に出
たカガリを追う。
 「玄関までお見送りします」
 その言葉が聞こえていたのかいないのか、キラは漸く顔を上げた。
 視線の先には、押さえていたものがなくなって自然と閉じられた扉。
 「・・・奥様?」
 いつもなら強かに人と相対するキラの常にない様子に辟易しながら、メイドはそれでもキラに視線を合わせるよ
うにしゃがみ込んで言葉を紡ぐ。
 そうだ、彼女の為に折角用意した食事が冷めてしまったではないか。
 まるで亀のようにゆっくりと、メイドに視線を合わせたキラ。メイドは静かに、言葉を発した。
 「温かいお食事を、ご用意します」
 そっと触れた肩があまりにも冷たく、メイドはどこか不安を感じていた。
 主人であるイザークと婚姻を結ぶために子どもを利用するような女が、ここまでの脅えを見せる相手、カガリ。
 一体二人の間にどのような確執があるのか甚だ疑問ではあるが、今考えるべきはそのようなことではない。
 『キラには適当に食べさせておいてくれ』
 そう言った主人の言葉を守るのが、今の彼女の務めであるのだから。
 メイドは未だ呆然と座り込む主人の奥方の肩と背に手を添えて、ゆっくりとキラを立たせてトレイに目をやった。
温め直さなければと、心の中で溜息を吐く。
 そうして、聞いてしまう。
 「・・・何が、“妹”だ・・・・・」
 その声は、地を這うように低く。
 憎悪と嫌悪と、悲哀が混ざったような声音は、メイドを瞠目させるには充分だった。
 「・・・ごめん。食事はもう、冷めてしまっているわね」
 次に見せた笑みは、どこか悲しそうで、辛そうで。
 メイドはほんの少し、眉根を寄せた。
 「ご安心を。温め直しますから」
 大した労働でもない。言外に告げたメイドに、キラは眉尻を下げる。
 「ありがとう」
 一言告げたその声音にさえ身を切られるような切なさを感じてしまうのは、きっと気のせいだ。
 暖かい食事を食べれば、きっといつもの奥方に戻っている。
 そう思い直し、メイドはゆっくりと歩を進めた。



















あとがき
カガリ好きさんすみませんorz












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