怖い。

 恐い。

 こわい。

 

 カタカタと組んだ両手も、肩も、否、全身が震えている。

 横手には『手術中』と書かれたランプが点灯している。

 手術室の傍らに設置された椅子に腰掛け、キラは一人、祈ることしか出来なかった。

 数時間前、銀行強盗に銃で撃たれたアスランは、その後強行突破してきた警察に保護され、すぐに病院に運ばれた。

 多量の血を失ってしまった為輸血が必要だが、キラはA型でアスランはO型の為に自らの血液を役立てることができない。

 ああ、自分は何て無力なんだろう。

 自分さえあそこにいなければ。

 自分さえ冷静でいられたら。

 自分さえ、存在しなければ。

 アスランは今頃、きっとどこかで幸せに誰かに誕生日を祝ってもらっていただろうに。

 まるで疫病神みたいだ、とキラは自嘲した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カチ、とランプが消える音がして、キラは勢いよく顔を上げた。

 それは如実に手術が終了したことを示している。

 アスランはどうなったのだろうかと、キラの心は泡立つ。

 無事に成功したのか、それとも、考えたくはないが失敗してしまったか。

 前者であればいいと、キラは縋るように扉を見た。

 そう間も置かずに、手術服姿の医師が現れ、キラは飛びつくように医師の前へ踊り出た。

 「あ、あの!!アスランは!?アスランは、どうなったんです!?」

 医師は突然声を張り上げたキラに一瞬面食らったようであったが、すぐに気を取り直して真顔に戻る。

 その表情が、何か悪いことでも起きたと言っているようで、キラはまさかと身構える。

 「手術は、成功しましたよ・・・」

 「!じゃあ」

 医師の答えに、キラは安堵の笑みを浮かべる。しかし医師は硬い表情のままで。

 「ですが、油断は出来ません。何しろ、出血が酷かったので・・・。いつ目覚めるかわかりませんし、もしかしたらこのまま

ずっと、目覚めないかもしれません」

 キラは信じられない、とでも言うように医師を凝視した。

 「そんな・・・・・」

 「もし目覚めても、脳に後遺症が残ってしまう可能性があります。その旨、しっかりと胸に留めておいてください」

 医師はそう言うと、キラの横をすり抜けて去って行った。

 自分のせいで、彼は苦しい思いをしている。

 何度も、自分を助けようとして、自分が傷つくのも省みず。

 あの時と、同じだ。

 車がスリップして、怖くて。

 目を瞑っていたら、突然暖かさに包まれて。

 気がついたら、アスランが血を沢山流していて。

 ああ、自分のせいなんだと。

 自分がいるから彼は傷ついてしまうんだと。

 忘れようとしても、忘れられなくて。

 結局、記憶を自分の心の奥底に仕舞っておくことしか出来なかった。

 なら、今も?

 今も同じように、彼を忘れる?

 そんなことは、出来ない。

 彼を、アスランを忘れるくらいなら、死んだ方がマシだ。

 ならばどうする?

 彼が傷つくことを承知で、彼の傍にいるの?

 それも、出来ない。

 ではどうするというのだ。

 自分はもう全て、思い出してしまった。

 何もかも。

 なら、忘れたふりをすればいい。

 事故によって記憶を失ったままだと、演技すればいい。

 彼の傍にいられないのは辛いけれど、彼がそれで幸せになれるのなら構わない。

 だからキラは、自分を隠す。

 彼に、アスランに悟られないように。

 彼の幸せを願って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ暗な世界。

 前も、後ろも全く見えない。

 どこに向かえばいいのかもわからなくて、立ち尽くす。

 「誰か、いませんか?」

 声をかけても、それは暗闇に吸い込まれて消えてゆく。

 孤独感が一気に押し寄せてくる。

 アスランは一人、不安そうに瞳を揺らしていた。

 不意に、遠くの方に光の筋が見えた。

 やっと目指すものが見つかり、アスランは臆することなくそちらに向かう。

 しかし突然、眩い光に足止めを食らってしまった。

 「誰、ですか?俺は、あっちに行きたいんです。通してください!」

 早く光のある方に向かいたい。

 けれどそんな願いも虚しく、目の前の光は退く気配を見せない。

 『こちらに来てはいけないわ、アスラン』

 光が発する声に、アスランの身体がビクリと震えた。

 『貴方はまだ、こちらに来ては駄目』

 光はだんだんと人の形を模していき、やがてアスランの見知った人物へと変わっていく。

 「は・・・・は、上?」

 信じられない。

 だって目の前にいるのは、十五年前病死した母、レノアなのだから。

 レノアは悲しそうに目を細めると、前方に弧を描くように手を翳した。

 瞬く間に、アスランとレノアの間にサラサラという流水音が聞こえ、一本の川が顕現した。

 「これは・・・?」

 『この川からこちらに来てしまえば、貴方は帰らぬ人となってしまうわ』

 それはつまり、死んでしまうということ。

 「母上・・・・・しかし、私には思い残すことなど・・・」

 静かに抗議しようとするが、レノアの今にも泣き出しそうな表情に言葉を詰まらせる。

 『あるでしょう?貴方には、キラちゃんを幸せにするという使命が、あるでしょう?』

 それを聞き、アスランはビクリと肩を揺らす。

 「・・・・・キラは、ちゃんと、イザークが幸せにしてくれます」

 『いいえ。貴方でなければならないのよ?アスラン・・・』

 自愛のこもった表情と声音に、ああ、母上だと安堵するのと裏腹、アスランはゆっくりと首を左右に振る。

 「キラには俺なんて、必要ありませんよ・・・まして、幸せになるなんて・・・・・」

 『もっと、自分に自信を持ちなさい』

 少し強い語調で言われ、アスランは小さく目を見張った。

 『貴方はまず、自分を信じなさい。キラちゃんはちゃんと、貴方を思っているわ』

 記憶のままの微笑みで、優しく囁かれる。

 「けど・・・・・・・・・」

 『大丈夫よ。・・・ほら』

 そう言って、今度は頭上に手を翳すと、暗闇の空間が一人の少女を映し出す。

 「キラ!?」

 アスランはその映像に驚愕した。

 そこには、俯き加減にアスランの手を握り、とめどなく大粒の涙を零している、キラの姿。

 チクリ、と胸が痛んだ。

 彼女は今、泣いている。

 自分の手を硬く握り締めて。

 自分の為に、泣いているのだろうか。

 こんな不甲斐ない自分の為に、涙を流してくれているのだろうか。

 ほんの少しでも自分を、思ってくれているのだろうか。

 例えそれが、自分に対しての負い目であったとしても。

 『さあ、行きなさい、アスラン・・・彼女が待っていますよ』

 懐かしい暖かさに、心が惹かれる。

 けれど今、アスランにはキラのことしか考えられなかった。

 親不孝者だと言われても構わない。

 だってこれが、自分の本心なのだから。

 「行きます・・・・・母上」

 名残惜しいけれど。

 『また、寿命を達したら来なさいね。そうしたら、今度は出迎えに来てあげるわ』

 離れ難いけれど。

 「はい。ではその時まで」

 少しでも、母親の姿を目に焼き付けておきたいけれど。

 『ええ、またね。アスラン』

 眩しいほどの笑顔で見送られる。

 「ありがとうございました、母上」

 そして、川とは逆方向に向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい、けれど撃たれた直後よりもいくらか暖かい手を握り締め、硬く閉じた瞼は長時間涙を流し続けていたせいか赤く腫れ

ぼったい。

 それでも、キラは泣くことを止めない。否、止められないのだ。

 自分の為に傷ついたアスランが、このままずっと目覚めないかもしれない。

 そう聞いて、身の凍るような思いがした。

 どれだけ自分は、アスランを不幸にすれば気が済むのだろう。

 どれだけ自分は、彼の優しさを踏み躙っただろう。

 最早、アスランとキラは以前愛し合った恋人の仲には戻れないかもしれない。

 けれど想いは以前と変わらない。寧ろ、以前よりも強いかもしれない。

 キラはアスランの手を握り締める力をほんの少しだけ、強めた。

 そうしてしばらくそのまま動かないでいると、ピクリ、とアスランの指が動いたような気がした。

 「!ア・・・部長?」

 アスラン、と呼びそうになる自分を叱咤して、彼の顔を覗き込む。

 しかし目を開ける気配はなく。

 「部長!?部長!!」

 懸命に呼んでも反応のない彼に焦れたキラは、涸れたと思っていた涙が再び目に溜まっていくのを意識の端の方で感じ取る。

 「・・・き・・・・・て・・・・・・・・。起きて!アスラン!!」

 湧き上がって来る感情を抑えきれずに、彼の名を叫んでしまう。

 その必死な声に、アスランの瞼が震える。

 「アス・・・・・部長!?」

 ゆっくりと、焦らすように開いていく瞼を、キラは魅入るように見つめた。

 やがて現れた翡翠は、寝起きの為か鈍い輝きを見せていて、それはキラを見ることなく天井を見上げたままだ。

 実際はほんの数秒位だろうに、キラには何分もそうしていたかのように感じられた。

 そうしてやっとアスランの瞳がキラを捉えると、一瞬の間をあけて驚いたように小さく目を見開いた。

 「・・・キ・・・・・・・ヤマト、さ・・・・?」

 こんな時でも気を使うアスランに苦笑して、コクリと小さく頷いてやる。

 そうするとアスランは、嬉しそうに微笑んだ。

 「よか・・・た・・・・・。俺、ちゃ、と・・・ま、もれ・・・・た、んだ・・・・・」

 掠れて途切れ途切れの声なのに、想いは強くて。

 「守ってくれて、ありがとうございました。・・・早く、よくなって下さいね?」

 本当は彼の名前を呼びたい。

 本当は彼を抱きしめたい。

 本当は彼とずっと、一緒にいたい。

 そんな思いを悟られないように、無理やり笑う。

 「無事で・・・よか、た・・・・・」

 そう言い終えると、役目を終えたとでも言うように、ゆっくりと目を閉じていく。

 「っ部長!?」

 キラは驚愕と不安に駆られ、ここが個室ではあるが病院内だということを忘れ、叫ぶ。

 肩を掴み揺さぶるが、彼は反応を見せず、その代わり微かだが寝息が聞こえてきた。

 それを聞きとめると、キラは安心して脱力し、腰が抜けたようにへなへなと床に座り込んでしまった。

 「・・・もう。寝るんなら寝るって、言ってよね・・・・・」

 安堵感の為か、また涙腺が弱まり涙が溢れてきた。

 キラはそれを拭いながら、僕って本当に泣き虫だなあ・・・と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「・・・・・そうか。お前が決めたことなら、俺は口を出さん」

 アスランが目覚めた翌日、キラはイザークに別れを告げた。

 自分が記憶を取り戻した以上、好きな人を傷つけてまで好きでもない男と付き合い続けられる程、キラの心は汚れてはいない。

 「ごめんね。・・・ありがとう」

 最後ぐらい笑っていようと、キラは微笑を浮かべたままだ。

 「いや。・・・幸せに、なれよ?」

 感情を心の奥に仕舞っているのか、イザークはずっと無表情で。

 けれど優しい言葉をくれる。

 それが余計にキラに罪悪感を与え、微笑が少し引き攣ってしまう。

 「じゃあ、な・・・」

 引き留めることもなく、縋るでもなく、イザークはただ、身を引いた。

 颯爽と去っていくイザークの後姿を見つめながら、キラは一言ごめんなさいと呟いた。

 貴方を傷つけてごめんなさい。

 貴方をずっと見ていられなくてごめんなさい。

 貴方を裏切ってしまってごめんなさい。

 キラはイザークの姿が完全に見えなくなっても、しばらくそこに立ち竦んでいた。

 どのくらいの時間が過ぎた頃か、キラはふと、夕日が沈み、もうすぐ闇へと変わる空を一瞥する。

 アスランは今頃、どうしているだろうか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「身体を壊しても知りませんよ?」

 立ったまま上司を見下してくるこの青年は、ニコル・アマルフィ。

 アスランの部下で、お互いに信頼し合っている仲だ。

 「大丈夫だよ、ニコル。それより、例の件の資料は持ってきたか?」

 まだ医者からは安静にしていろと言われているのにも関わらず、仕事をすると聞かないアスランに溜め息を吐きながら、ニコルは

鞄から資料の束を取り出す。

 「はい。アスランがいない間、大方決まりましたが・・・どうです?」

 アスランが入院している間、以前からのプロジェクトの案件が着々と進められていたらしい。

 資料に目を通しながら、自分の意見をまとめていく。

 「・・・そうだな。取り敢えず、この調子で進めておいてくれ。あとは・・・」

 皆まで言い終える前に、アスランの前にずいっと差し出される大量の紙の束。

 アスランは目を瞬かせ、一瞬硬直してしまった。

 「仕事しても構いませんが、くれぐれも無理はしないようにしてくださいね」

 最後に、貴方は会社にとって必要な人間なんですから、と付け加えて、ニコルは鞄を持って立ち去ろうとする。

 「ニコル!」

 慌てて呼び止めようとすると、ニコルは立ち止まって振り返り、ニコリと笑った。

 「また来ますよ。早く身体、治して下さいね」

 「あ・・・ああ・・・・・」

 先程の真剣な表情はどこへやら、ニコルはそう言い終えると帰って行った。

 「・・・・・ありがとう」

 ニコルの気遣いに頬を緩めると、アスランは手元の書類に手を伸ばす。

 のんびりしているとまた、キラが傍にいてくれない悲しさに囚われてしまいそうになるから。

 我武者羅に働いて、少しでもいいからキラを忘れて、言いようのないこの悲壮感から逃げたくて、けれど彼女の存在を心の奥底

から願っている自分に自嘲する。

 そしてまた、逃げるように仕事をし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 必死に書類に目を通しているアスランを、ほんの少し開けた扉の隙間から覗くキラ。

 どうしてそんなに頑張るんだろう、とキラは疑問に思う。

 何故無理を承知で仕事などを始めるのだろう。

 もしかして、自分の為?

 まさか。そんなはずない。

 でも、とキラは自分の考えを否定する。

 前のアスランは、ここまで仕事熱心じゃなかったような気がする。

 寧ろ、キラの為に仕事をさぼっていた時があったくらいだ。

 何かが変わった。

 もちろん、自分の中の何かも。

 もしかしたら二人は、似すぎているのかもしれない。

 磁石のマイナスとマイナスのように。プラスとプラスのように。

 似ているからこそ近づけない。

 けれどそんな状況を変える術を、キラはもちろんアスランでさえも持ち合わせていない。

 キラはじっと、アスランを見つめているしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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PHOTO BYかぼんや