ここに訪れるのは、約一ヶ月ぶりだ。 アスランはある家の前で立ち止まった。 表札には“ヤマト”と書かれている。 事故のあった日、キラを迎えに来て以来、初めて訪れた。 深呼吸を何度か繰り返し、意を決して門を開ける。 自分の実家と比べれば少し小さいが、温かい家庭のある家だ。 玄関まで辿り着くと、アスランの手は壁に備え付けてあるチャイムのボタンに伸びる。 ピーンポーンと間延びした呼び出し音が、家の中に響くのが分かった。 しばらくして、ドアの向こうから小さく返事の声が聞こえ、パタパタと足音が聞こえた。 「はい、どちら様?」 玄関のドアから現れたのは、今は亡き母に似た色合いの髪をした、壮年の女性。 「・・・・・アスラン、君?」 女性は突然何の前触れもなく現れた男の名を、呆然と呟いた。 「お久しぶりです、カリダおばさん」 紳士らしく、ゆっくりと一礼する。 カリダは慌てて顔を上げさせると、すぐにアスランを家の中に誘った。 W… ザラ家とヤマト家。 貧富の差はあれど、昔から近所付き合いをしていた。 アスランの母レノアと、キラの母カリダ。 二人は幼馴染で、ずっと一緒の学校に通っていたのだと何度か聞いたことがある。 ザラ家に嫁いだレノアが慣れない生活でストレスを溜めているのではないかと、カリダはわざわざザラ家の近くに引っ越して きたのだという。 それ程に仲の良い二人の子供たちは、必然的に仲良くなった。 しかしレノアは、アスランが9歳の時に亡くなってしまったのだ。 物心つく前、というか生まれる前からずっと一緒に育ってきたキラとアスラン。 幼稚園から高校まで、ずっと同じ学校に通ってきた二人は、大学に入って初めて離れて学んだ。 大学二年生の時、アスランはオーブという国に一年間留学していた。 その頃既に、傍にいて当たり前の存在となっていたキラ。 アスランは離れて初めて、自分がキラに寄せている気持ちに気付いた。 離れている間も、いつも思うのはキラのことばかり。 勉強している間も、キラのことが頭から離れず、酷い成績を取ったこともある。 そこで知り合ったトールという悪友に唆されて吸った煙草も、そのうち意味を成さなくなった。 それがまだ、半年しか経っていない時だったなど、今思えば自分は本当にキラに執着していたなと思う。 なくてはならない存在。 それが、キラだった。 けれど今、自分はそれを断ち切らなければならない。 そうしていつかキラのことを忘れ、自分も幸せになって、人生を終えていく。 それでいい。 だからこそキラには、記憶がなくても幸せになれるということを証明して欲しいんだ。 こう思うことが、自分の強がりだと心の中では分かっているけれど、そうでもしなければ自分の心はきっと壊れてしまう だろうから。 これでいい。 もう君は、自分に縛られることはないんだよ。 自分は、君の枷にはなりたくないから。 だからけじめをつけよう。 「ご挨拶に、参りました・・・」 通い慣れたヤマト家。 その、決して大きいとは言えないリビングに通され、ソファに座るよう促される。 正面のソファには、キラのご両親。 ハルマとカリダがこちらを見据えている。 「この前退院したばかりで、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした・・・」 深々と頭を下げると、心配げに溜め息を漏らすヤマト夫妻。 「そんな、いいのよ、アスラン君・・・・・」 「いえ。自分の怪我を理由に、なかなか来れず・・・本当に、なんと言っていいか・・・・・」 暗い表情で言い淀むアスラン。 アスランの表情に比例して、ヤマト夫妻の表情も自然と暗くなっていく。 これから彼が何を言うのか、容易に予想ができたから。 「この度の事故、あれは、俺のせいなんです」 静かに、さらさらと流れる小川のように、告げる。 「いいえ、違うわ。あれは・・・」 カリダは即座に否定するが、アスランの真剣過ぎる瞳に気圧されてしまう。 「確かに、あの車が原因でもあります。しかし、もし、あの日俺があの道を通らなければ・・・」 休日だったので、いつもの道は混んでいた。だから、わざわざ遠回りして、なるべく空いている道を選んで走っていた。 「多少混んでいても、待っていればそれで済んだのに・・・」 その日に限って渋滞が続き、クラクションの音が煩かったのを今も覚えている。 「アスラン君・・・・・」 やりきれない、と言うようにハルマはアスランの名を紡いだ。 「咄嗟に、避けようとして・・・キラを庇おうとしたけれど、あんなことに・・・」 苦しそうに、今にも泣き出してしまいそうな程に歪められた眉根。 「謝れば済む問題ではないのは、重々承知しています。しかし、自分には、謝ることしかできません!」 ヤマト夫妻は口を挟むことなく、見守ることで先を促す。 「本当に、申し訳ありませんでした!!」 キラを守りきれなかった自分が、情けなくて、やりきれない。 嫌気が差してくる。 悔しくて、涙が溢れ出てきそうになるのを必死で堪えたが、声が震えてしまった。 頭を下げて、俯かせている顔はヤマト夫妻に見られることはない。 だがそれはカリダの声によって遮られることになった。 「顔を、上げてちょうだい?」 どんな罵声が自分に向かって吐き出されるのか内心構えていたと言うのに、帰ってきたのは予想を裏切る優しい声。 若干強張った声だが、母の面影を感じて張り詰めていた心がほんの少しだけ解けた。 「自分を攻めないで。攻めてはだめ。道を選んだのはあなたかもしれない。でも、事故が起こるとわかっていてその道を選んだ わけではないでしょう?」 笑みこそ浮かべていないが、諭すように紡がれる穏やかな声。 「それに、あなたはちゃんとキラを守ってくれたわ。だってそうでしょう?実際、キラはほとんど無傷で、その代わりにあなたが 重症を負ったんだもの」 カリダはやっと表情を和らげ、苦笑を溢す。 「記憶は無くしてしまったけれど、傷物にはなっていないでしょう?」 「カリダおばさん・・・・・」 「キラだって、あなたに感謝しているわ」 それを聞いた途端、アスランの中で渦巻いていた何かが零れるのがわかった。 透明な涙が、アスランの頬を伝い落ちた。 「あなたのせいではないわ。ね?だからアスラン君、自分を攻めないで?」 カリダに言葉を返すことはせず、ただ嗚咽を漏らすアスラン。 止まらない、涙。 今まで押さえ込んでいた分、その反動でなかなか止まりそうもない。 カリダは苦笑しながらも立ち上がり、風呂場からタオルを取って来てアスランに差し出す。 「ありが・・・と、ござ・・・・・ま・・・・・・・・・」 掠れて、途切れがちになった感謝の言葉を聞き、カリダはどういたしましてと答えた。 どのくらい経っただろうか。 アスランの嗚咽は止まり、揺れていた瞳がきちんとヤマト夫妻を映し始めた頃。 今まで黙って話を聞いていたハルマが、重い口を開いた。 「それで、娘とは・・・キラとは、どうなっているんだ?」 職場のことはあまり話さないキラの代わりに、アスランから聞き出そうとしているらしい。 以前も、よく聞かれたことはあったので特に不思議には感じない。 「変わりはありません・・・けれど、キラは・・・娘さんは、俺の部下と付き合い始めたようですよ」 泣き腫らした目はどこか遠くを見つめ、口許には自嘲を浮かべる。 「え・・・・・?どうして?だって、あなたとキラは・・・・・」 驚きで目を見張り、当然の疑問を抱くカリダ。 「ええ。付き合っていました。けれどそれはもう、過去の話です」 「なんだと!?あれ程、好きだと・・・愛していると、言っていたじゃないか!?」 アスランの冷たい返答に、ハルマは思わず腰を浮かせた。 パトリックよりも、キラとアスランのことを反対したハルマ。 アスランなら大丈夫だと、キラとカリダに説得されて漸く納得したと言うのに、この様は何だ? 「・・・気付いたら・・・・・俺が怪我で動けない間に、そうなっていたんです・・・・・」 膝の上に乗せた拳を、固く握り締める。 もしもあの時自分の怪我がもっと軽いもので、自身の力で動き回れたなら、真っ先にキラを抱きしめに向かったのに。 それをしなかったのは医師と看護師の説得と、治ってからでも大丈夫と言う自分の過信した心のせいでもある。 「相手の名は?」 そんなアスランの様子に気付いたのか、ハルマは腰を落ち着かせた。 「イザーク・ジュール。俺の大学時代の先輩であり、現在俺とキラの勤める部署の係長を務める男です」 苦々しげに、けれど淡々と告げる。 「・・・・・どんな、男だ?」 「大学時代から、キラに思いを寄せていたようです。いちいち俺に突っかかってくる、ちょっと気の荒いヤツですが、キラの前 だと一変して優しくなるんです」 自嘲を浮かべて、イザークのことを話す。 「君は、それでいいのか?」 ハルマの問いに、愚問だとでも言うように顔を上げる。 「キラが幸せになれるのなら、それで構いません」 「そうなれる保障はあるのかね?」 普段温和なハルマのアスランに向ける厳しい目は本物で。 思わず尻込みしてしまいそうになるけれど、自分の信念を貫くために、折れることはしない。 「はい。俺も、信頼している男です。きっと、キラを一生守っていけますよ、あいつなら」 無理やり笑みを作り、ヤマト夫妻を安心させようとするが、それがかえってアスランの痛々しさを伝えてしまう。 「しかし・・・・・」 「安心してください。俺は・・・叶わない恋など引きずるつもりは毛頭ありませんし、キラのことは忘れるように努力します」 敢えて、突き放すような言葉を選ぶ。 これ以上話していたら、セメントで固めた心にヒビが入ってしまうから。 「それでは、失礼します」 そう言って、頭を下げてヤマト家を後にするアスラン。 ヤマト夫妻はただ、彼の背中を見つめるしか出来なかった。 「・・・彼は、強いな」 徐に開いた口から、ぼそりと紡ぎ出す声。 「ええ、とても・・・」 カリダの声も自然と小さくなる。 せめて、彼が幸せになってくれることを祈って。 夕日が、水平線に沈んでいく。 障害物といえば、遠くに点々と浮かぶ島々くらいだ。 真っ赤に熟れた太陽が、ゆっくりと時間をかけて消えていく様を、アスランは浜辺に立って眺めていた。 ザァーン・・・・・ザァーン・・・・・。 潮の満ち引きの音が、耳に心地良く響く。 手には小さな箱が、大事そうに握られていた。 『アスラン!』 思い出すのは、浜辺を裸足で走っているキラの姿。 海にはよく遊びに来ていた。 事故にあったあの日も、ここに来るはずだった。 そして、手の中の指輪を渡そうと思っていたのだ。 キラの24歳の誕生日だったあの日。 プロポーズをしようと、ロマンチックを求めて場所をここに決めた。 キラが、喜びそうだから。 浜辺で、海をバックに婚約指輪をキラの細い指に嵌める。 断られることなんて、考えていなかった。 けれどまさか、海に着く前にあんな事態になるなんて、誰が予想しただろうか。 アスランはパカリと箱を開けると、中の指輪を取り出した。 細めのリングに、内側に小さなアメジストが嵌め込まれているというシンプルなデザインだ。 キラと同じ、瞳の色。 『アスラン・・・・・僕も、君のことが、好きだよ』 恥ずかしそうに頬を染め、自分の気持ちに答えてくれたキラ。 必死に訴えてくるキラの行動が、どうしようもなく可愛くて。 思わず抱きしめてしまって、驚いたキラに後で散々怒られたのを今も鮮明に思い出すことが出来る。 けれど、キラはそんな他愛もない思い出も、キラに告げた自分の気持ちも全て忘れてしまったのだ。 何も覚えていないキラは、俺をただの上司としか見ていない。 そして、少し前までは頼れる先輩と言っていたイザークを、恋い慕っているのだ。 たった一ヶ月で失ってしまった。 たった一ヶ月で変わってしまった。 こんな屈辱があるだろうか。 アスランの心の中で、どうしようもない嫉妬心と、後悔の念が複雑に絡み合って渦巻く。 本当は、キラが自分以外の男を見ているのなんて嫌だし、落ち着いてなんていられない。 本当は、キラをギュッと抱きしめて、この腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいだ。 本当は、ずっと傍にいて、自分を頼って欲しい。 本当は、自分がキラを幸せにしてやりたい。 けれど、そんな本音は自分の我侭だと分かっているから。 キラに幸せになって欲しいのは本心だ。だからこそ、この道を選んだ。 キラを縛り付けて、何になる? キラを苦しめて、何になる? 自分だけが幸せになって、一体何になると言うのだ? 否、キラが幸せでなければ、自分も幸せにはなれないのだ、きっと。 だから、そんな愚かなことは望まない。 これが二人にとって最良の選択だと思うから。 だからアスランは、たとえ自分がどんなに苦しくても、キラが幸せならばそれでいいと言うのだ。 自分は決して、諦めているわけではないと心に言い聞かせながら。 アスランは指輪をギュッと握り、硬く目を閉じる。 脳裏に甦る、愛しいキラ。 アスランに愛を囁き、自分もそれに答える日々。 幸せだったあの頃は、思い出としてアスランの心の中だけに眠る。 それは大きくて、大き過ぎて、溢れ出しそうになってしまう時もあるから。 だから、少しでも自分の気持ちを抑えられる強さが欲しくて。 アスランは目を開くと、指輪を握った方の腕を高く掲げる。 これを捨てればきっと、今よりも楽になれる。 そう、信じて。 一気に腕を振り下ろす。 空を切り、風を凪ぐ音が一瞬聞こえる。 しかし、手は閉じたまま、開いていない。 ああ、どうして自分はこんなに弱いのだろう。 アスランはくず折れるように砂浜に膝をつけて項垂れる。 失うのが、手放すのが、恐い。 縋るものが無くなってしまうのが、どうしようもなく恐ろしいのだ。 どうして、諦めてしまったのだろう。 どうして、キラに自分との関係を言って、説得しようとしなかったのだろう。 後悔ばかりが脳裏を過ぎる。 そんな自分の情けなさに、涙が溢れてくる。 いろんな気持ちが混ざった、涙。 「・・・・・ぅ・・・・・く・・・・キ、ラ・・・・・・・・・・」 必死に嗚咽を押し殺すけれど、キラの名前を呟くのは止めることなどできない。 太陽が無くなり、空が暗闇に変わっていく。 ほんの少し赤みのある空を滲んだ視界に入れても、わかるのは明暗だけ。 けれどその向こうにキラの姿を思い浮かべ、また、涙する。 どうか、と。 どうか、キラを思い続けることを許して欲しい、と。 強すぎたこの思いは、消えることを知らないように。 アスランの心に根を生やし、びくともしないくらい丈夫な気持ちだから。 抗えば抗うほど、辛くなっていくから。 だからどうか、君が幸せになっていくのをこの目で見ていきたい。 君を見守ることが、自分の義務だと、責任だと。 自分を縛り付けるようなことだとわかっているけれど、これが、自分の生きる道だと思い始めたら本当に、そう思えてくるから。 だから忘れない、キラの分も。 アスランはふらりと力なくも立ち上がり、キラにあげるはずだった婚約指輪をポケットに落とした。 服の袖で乱暴に涙を拭い、また海を見つめた。 「キラ、俺は、君の幸せを願っているよ」 今日はよく泣く日だな、と自嘲しながら、踵を返す。 明日からはまた、仕事だ。 週に一度の休日。アスランは新たにキラを見守ることを誓った。 |
PHOTO BYかぼんや