「じゃあ、行ってくる」 そう言いながら、キラの頬にキスをする男の名はイザーク・ジュール。 キラは三年前この男と結婚し、二年前には長男を儲けた。 イザークは、業界ではトップクラスの企業であるジュールグループの会長、エザリア・ジュールの息子であったが、キラとの結婚 を期に勘当されてしまった。 その為ジュールの姓を名乗ることは憚られたが、キラの「エザリアさんはきっと、意地を張ってるだけなんだよ。だから本当は、 寂しいんだと思う。名前だけでも繋がりを持っててあげなきゃ、お義母さん、泣いちゃうよ?」という言葉に、イザークも納得して ジュールの姓を名乗ることにしたのだ。 しかし、たとえジュールの姓を名乗ったとしても、お金が入ってくるわけではなく。 彼らはお世辞にも綺麗とは言えない三階建てのアパートに住んでいるのだ。 いろいろなところが錆付いているし、扉もそれ同様、開けるのに少々時間がかかる程建て付けが悪い。 それもこれも、エザリアが様々なところに手を回してイザークに仕事を与えないように暗躍しているからである。 言ってしまえば、エザリアはイザークに帰ってきて欲しいのである。 会いに来ればいいものを、彼女のプライドが許さないのだろう。 イザークも、流石エザリアの息子といえよう。 彼もまた、エザリアに会いに行こうとしない。 なんとも頑固で不器用な親子だな、とキラは常々思う。 今日もまた、イザークは職探しに出かける。 仕事が見つからなくても、家族の為にと毎日。 キラもパート勤めをしているが、大した収入にはならない。 このボロアパートから引っ越せるのは、若しかしたらこの先一生無理かもしれない。 だがその望みが叶う日が来るとは、キラもイザークも、二人の息子も、予想だにしていなかった。 それは突然、起こったのだった。 T 錆付いたドアをやっとの思いで開けたイザークは振り返り、微笑みを向けるキラに視線を向けた。 「じゃあ、気をつけて」 イザークもまた、キラに微笑みを向ける。 「ああ。・・・今日は早く帰る」 その言葉に、キラはきょとんと首を傾げる。 そんなキラの反応に、イザークは苦笑しながら言葉を続ける。 「今日はお前の誕生日だろう?」 その返答に、キラはあっと声を漏らした。 イザークもその反応を予測していたのか、苦笑したままだ。 「そろそろ、行ってくる」 そう言って歩を進め出したイザークに、キラは慌てていってらっしゃいと声をかけた。 イザークはそれには振り返らず、片手を挙げて返事をした。 今日はキラの23歳の誕生日。 よもや誰も、この日が最悪の日になろうとは予測していなかっただろう。 キラは未だ眠り続ける我が子の元に足を向けた。 未だ二歳の息子、カルトは保育園に通っている。 今日は祝日で、キラもパートは休みだ。 なので必然的に、今日はずっとカルトと一緒にいられるのである。 キラはカルトの、愛する夫と同じ真っ直ぐな銀髪を手で梳き、感触を楽しむ。 愛しい夫との子。 イザークと天秤にかけても、きっと傾きは無いだろう。 キラはカルトを見つめながら、優しく微笑んだ。 暖かい陽射し。 絶好の洗濯日和だ。 キラは洗濯物をベランダに干しながら、空を見上げた。 先ほど起きたばかりのカルトは、寝ぼけ眼のまま朝食を食べている。 今日は休日だということもあって、少々寝坊してしまったようだ。 それでも、キラは咎めない。 偶の休みぐらい、ゆっくりさせてあげたいのだ。 普段、キラと一緒にいられないカルトは、保育園にいる。 友達もいて、両親と一緒にいられないことに不満を言ったことはない。 出来た息子だ、とキラもイザークも舌を巻くほどだ。 洗濯物を干し終え、キラは愛息子の元に戻る。 「食べ終わった、カルト?」 そう問えば、カルトはニコリと微笑んで大きく頷いて見せた。 「ごさま!!」 必要以上に大きな舌っ足らずな声で満足げに言ってくるカルトに、キラは苦笑を零した。 イザークそっくりな顔立ちで、それでいて中身はこんなにも無邪気。 これほど面白いことがあるだろうか。 キラはよかった、と返し、空いた食器を片付け始めた。 そうしながら、キラは時間を無駄にしないようにとカルトに話しかける。 「ねえカルト。今日、ママと一緒にお出掛けに行こうか?」 台所に立ち、食器を洗い始める。 洗剤の独特の香りが鼻腔を突くが、キラは笑みを絶やすことなく忙しなく手を動かす。 「いく!!」 ここからでは見えないが、声音だけでもカルトが喜んでいるのが判る。 「じゃ、どこに行きたい?」 そう問うと、カルトは唸りながら思案し始める。 キラはそんな息子を微笑ましく思いながら、洗い物を終えた手をタオルで拭いた。 「こえん!!」 カルトは大きく片手を振り上げ、自分の行きたい場所を主張した。 「わかった。じゃあ、お着替えしなきゃね!」 普段、思うように構ってあげることはできない。それでも泣き言を言わないカルトに、キラやイザークは親に気を使っているので はないかと考えている。 だからこそ、少しでも暇な時間ができれば一緒にいてあげたいと思うのだ。 カルトが寂しい思いをしないように、少しでも良心の愛を感じてくれればと。 徒歩で数分。 公園に近づくにつれ、聞こえてくる子供たちのはしゃぎ声。 キラは微笑ましくそれを聞きながら、カルトと一緒に童謡を歌う。 「「かーえーるーのーうーたーがー」」 少々季節はずれだが、保育園で習ったらしいのだ。 毎日カルトを迎えに行くと、必ずその日にあったことを事細かに説明してくれる。 キラにしてみれば、ありがたいことだ。 常日頃一緒にいられない息子が、どういう言葉を覚えているのか、どんな癖があるのかなど、一緒に過ごせる僅かな時間では判ら ない部分も、きちんと説明してくれる。 キラは毎日のように、保育園の先生の有り難味を実感しているのだ。 そうこうしているうちに公園に着くと、案の定、既に何人もの子供たちがそこかしこで遊んでいた。 砂場でお城をつくっている子供や、砂でお団子を作っている子供。 ブランコに乗って友達と高さを競い合っている子供達や、鉄棒で逆上がりの練習をしている子供。 大きな滑り台を滑ったり、駆け上がったりしている子供、そこらへんで駆けっこしている子供。 実に様々だ。 「カルト、ママ、あっちのベンチにいるから、遊んでおいで」 カルトの背中を軽く押しながら、微笑んでやる。 そうすると、カルトは少し不満そうに俯く。 「・・・まま」 ギュッと服の裾を握り上目使いで見上げてくるカルトにキラは一瞬面食らうが、すぐに噴出してわかったと言う。 「じゃあ、一緒に砂場で遊ぼっか」 カルトの頭をポンと撫で、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら、息子を誘うキラ。 「うん!!おしろ!!!」 先程の表情はどこへやら、カルトは満面の笑みを浮かべ、宙に大きく両腕で円を描きながら、イメージするお城を表す。 「わかった。じゃあ、飛び切り大きくて格好いいの、作っちゃおう!」 キラはそう言うと、カルトの手を取って握り、砂場を目指す。 先程までいた子供たちは、既に他の遊びを始めているのだろう。 キラは嬉しそうに笑みを零す我が子を見て、少し悲しくなった。 それと同時に、先程の自分の言葉を恥じた。 どうしてわかってやれなかったのだろう。 一週間。 キラにしてみれば、あっという間だ。 だが、カルトは未だ2歳の幼子。 寂しいはずが無いのに、自分でも、わかっていると錯覚してしまっていたのだ。 いつも、物分りがよくて、カルトと同い年くらいの子供ならわからない様なことも、きちんと理解して。 だからこそ、見落としてしまう。 カルトだって、子供なのだ。 甘えたいに決まっている。 寂しいに決まっている。 どうして、一瞬でも忘れてしまったんだろう、とキラは後悔する。 それでも、こんな自分に、いつも一緒にいられない自分に、ほんの一時でも甘えようとしてくれているのだ。 本当に、よく出来た子だ。 キラは苦笑を浮かべながら、そう思った。 砂場で遊んだ後、カルトをブランコに乗せて漕いでやったり、滑り台を一緒に滑ってやったりと、キラたちは母子水入らずの時を 満喫した。 ここにイザークがいれば、きっともっと楽しかったに違いない。 カルトも疲れたのか、少し眠たそうだ。 「そろそろ帰ろっか?」 そう問うと、フルフルと首を横に振るカルト。 まだ遊びたいのだろう。 こんなところはまだ子供だな、とキラは内心安心した。 「今日はパパ、早く帰ってくるって。だから、早く帰って待っててあげよ?パパ待たせちゃ、可哀相でしょ?」 カルトの眠気を必死に我慢している表情を覗き込んで言ってやると、カルトは渋々といった体で、小さく頷いた。 それを確認して、キラは来た時と同じようにカルトの手を取り歩き出した。 歩きながらウトウトとする愛息子に苦笑しながら、キラはカルトと同じくらいの高さまでしゃがみ込んで頭を撫でる。 「疲れたでしょ。おんぶ、しよっか?」 そう問うと、やはり眠いのだろう。カルトは逡巡しながらも首を縦に振った。 キラはカルトに背中を向けて、乗るように促す。 きちんと背中に乗ったのを確認して、立ち上がってまた歩き出す。 背中のカルトは既に寝息を立てている。 余程疲れたのだろう。 毎日の保育園生活以上に疲れたのかもしれない。 それほど、目一杯遊んだのだ。 毎週、とは行かないまでも、なるべく定期的に公園に訪れるようにしている。 やはり、子供は遊ぶのが一番だと思うから。 疲れるくらい遊ぶのが、一番なのだ。 しかし、今日はいい加減遊び過ぎた。 キラは内心ではヘトヘトで、カルトが軽くてよかったと思っている。 今日ぐらい、イザークに夕飯を作ってもらおうかとも考えてしまうくらいだ。 もちろん、本当にそんなことはしないが。 キラとカルトはそうして、家路についた。 いくら疲れたと言っても、まだ昼の三時を少し過ぎたくらいだ。 イザークも、いくらなんでもまだ帰ってはこないだろう。 キラはカルトを布団に寝かせ、しばらく寝顔を見つめていた。 朝と同じように、銀色の髪をそっと梳き、その感触を楽しむ。 そうしながら、今日の夕飯は何を作ろうかと思案する。 そういえば、最近全く買い物に行かなかったから、冷蔵庫の中が空っぽだ。 カルトもぐっすりと寝ていることだし、とキラはカルトの銀糸から手を離すと、徐に立ち上がった。 「少しだけなら、大丈夫だよね」 根も葉もない確信に、キラはそう漏らすと財布を持って扉に向かう。 勿論、戸締りは確認した。 カルトはきっと、しばらく起きないだろう。 しかし、そう長くは家を空けていられない。 万が一カルトが起きた時、一人では心細いだろうから。 キラは小さく行ってきます、といって扉をそっと閉じ、鍵を閉めた。 それからキラは、早足で近場のスーパーに向かったのだった。 アパートを後にして十分もしないうちに、キラは安売りで人気のスーパーに辿り着いた。 早速カートを転がしながら品物を物色し始める。 そうしてまた、数分。 突然、道路の方が騒がしくなる。 消防車が通ったのだ。 どこかで火事が起こったのかな、とキラは思うが、気にするでもなく買い物を続けるキラ。 だが、なんとなく胸騒ぎがするキラ。 早く会計を済ませて、帰ろう。 カルトが起きていたら、大変だ。 そう思って、足早にレジに向かうキラの耳に、一つの凶報が入る。 「なんだか、あのアパートが火事らしいわよ?ほら、なんだっけ?確か・・・」 まさか。 キラは知らずのうちに、声を潜め息を詰める。 胸騒ぎが、治まらない。 「そうそう、ヴォルテール・ハイツだわ。なんでも、放火らしいわよ?」 「大変よねぇ?あそこ、相当昔からあるし、老朽化も酷いでしょう?火の回りも、早いんじゃないかしら?」 最早、キラの耳には何も入ってはこなかった。 火事? どこが? 未だカルトが眠っている、アパートが? まさか。 まさか、そんなこと。 そんな、こと。 気がついたらキラは、買おうとした品物をそのままに走り出していた。 嫌だ。 いやだ。 イヤダ。 折角掴んだ幸せなのに。 それなのに、どうしてこうも簡単に。 幸せというものは、逃げていってしまうのだろうか。 キラは、煙の上がる我が家へと、全速力で駆けて行った。 あとがき 携帯サイトの時に日記形式で毎日更新してた物です。 全部で10話有ります。 ちょこっと修正しました。 |
photo by LOSTPIA
ブラウザを閉じてお戻りください。