キキ―――――・・・キュルキュルキュルッ・・・・・ガシャ―――ンっっ!!! けたたましいブレーキ音と、ハンドルを切る音。間もなく響く、大きな衝突音。 何が何だか理解しきれないけれど、唯一つ、彼女を守ることだけが頭の中を支配した。 自身の愛する人を守ろうと、咄嗟に彼女に覆い被さる。 それとほぼ同じくして、凄まじい衝撃が彼らを襲う。 二十代前半くらいの女性に覆い被さったまま微動だにしない男。 彼の目には、額からポタリポタリと滴り落ちる自らの血が、彼女の服を汚している様がぼんやりと映っていた。 「・・・ス・・・・・アス、ラ・・・・・?」 掠れ気味な愛しい人の声をもっと聞いていたいと思うけれど、体は言う事を聞いてはくれず、彼の意識は徐々に薄れていく。 力なく垂れた彼の手を呆然と見開いた目で認め、彼女は一人涙する。 「アス・・・・・アスランっ!・・・・・・・・・・ごめ、なさ・・・・・・」 彼女の透き通るようなアメジストの瞳から、止まることを知らないかのように後から後から涙が零れてくる。 程なくして、彼女は彼を追うように意識を手放した。 T… 瞼の内側にまで伝わる眩しさに、意識が徐々にはっきりしていくのがわかる。 「・・・・・・・・・・ん・・・」 水分がなく、張り付いたような感覚が口内にある。 喉が渇いた。そう思い、起き上がろうとするが身体は全く動かない。それどころか、感覚すら感じられないように思う。 それにいい加減違和感を覚えたのか、男性はゆっくりと目を開ける。 寝過ぎたのだろうか、少し開け難い。 薄く開いて、彼は目の前の景色をぼんやりと見つめた。 真っ白な、天井。 明らかに自分の家のものとは違う。 どこかに泊まっただろうか?否、そんな記憶はない。 彼は必死に記憶を探る。 キラの家のものではない・・・し・・・・・。 『キラ』。 鳶色の長い髪を背中に流し、彼女の名前の通りキラキラと輝くアメジストの瞳。 そして何より、彼が人生で初めて愛し、愛された女性。 そうだ。確か、キラの誕生日で。 一緒に海に行こうって、誘って。 そこで、プロポーズしようって思ってて。 けど、その途中で事故にあって。 スリップ・・・して。 キラ・・・・・。 君は、無事でいるの? 怪我とか、してない? あの時咄嗟に庇ったけど、大丈夫だっただろうか。 迫り来る不安に、瞳を振るわせる。 「あら、目が覚めたみたいね」 だがすぐに、彼の思考を遮るように優しく柔らかい女性の声が聞こえた。 「おはようございます、アスラン・ザラさん?」 「あ・・・は、よござ・・・ま・・・・・」 取り敢えず挨拶を返そうとするが、カラカラに渇いた喉からは掠れた声しか発せられない。 それに気付いたのか、女性は苦笑を浮かべた。 「お水、持ってくるわね」 そう言って踵を返した。 何分もたたないうちに、先程の女性が病人専用の吸飲みを持ってくる。 未だピクリとも動かない身体に苛立ちを覚えながら、アスランは吸飲みを口につけてくれる女性を見た。 「あ、申し遅れました。私は貴方の担当の看護士、マリュー・ラミアスといいます。どうぞ、よろしく」 アスランの視線に気付いたのか、マリューは人当たりの良い笑みを浮かべて自己紹介した。 アスランは、自分の喉が十分潤ったのに気付き口を離すと、それと同時にマリューも気を利かせるように吸飲みを離した。 「よろしく、お願いします」 まだ声を出すのは辛いが、自分がお世話になる人物に挨拶もしないのは己のプライドが傷つく。 アスランの言葉にニコリと笑みを浮かべると、マリューは吸飲みを台に置き、今度は体温計を手にした。 「体温、測りますね」 マリューはやんわりとそう言うと、アスランの腕を持ち上げて体温計を脇の下に挟んだ。 「すみません・・・」 自分のことを自分で出来ないことの情けなさと、世話をしてくれるマリューに申し訳なさが込み上げてくる。 そんなアスランに苦笑を向けると、マリューはいいえ、と一言囁いた。 「貴方の病状だけど、全治三ヶ月だそうよ。詳しいことは担当の医師に聞くといいわ」 全治三ヶ月。相当酷い怪我のようだ。そこでハタと恋人のことが脳裏を過ぎった。 彼女は、大丈夫だろうか。 先程考えていたことが再び脳裏に浮上する。 アスランは耐え切れなくなって、マリューに尋ねることにした。 「あの・・・・・」 「なにかしら?私に答えられることなら、なんなりと」 「キラ、は・・・?俺の、恋人なんです。彼女は、無事、なんですか?」 恐る恐るそう尋ねると、マリューはアスランを安心させるように微笑み、しかしすぐに表情を曇らせた。 「ええ。奇跡的に。・・・・・けど」 「けど・・・・・?」 マリューの歯切れの悪さに、動かないはずの身体が震えるほどの不安を感じる。 「・・・彼女、記憶を無くしてしまったみたいなのよ」 「え・・・・・?」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 「今まで培ってきた知識とかは覚えているみたいなんだけど・・・・・」 まさか、そんなはずは。 アスランは必死にマリューの言おうとしていることを否定しようとした。 「自分に関係する人の記憶が、欠けているの」 そんなはずはない。 確かにあの時、事故に遭って意識を手放す直前。彼女は怪我らしきものなどしていなかったはずだ。 ましてや頭部にそのようなもの、負ったはずはない。 もしあったなら、自分は死んでもキラを抱いて助けを求めに行ったはずだ。 「原因は恐らく、事故の衝撃によるものでしょうね」 苦々しくも淡々と述べるマリュー。アスランは堪えきれなくなって目を硬く瞑ってしまう。 「あ、でも・・・・・」 何か思い当たることがあるのか、先程よりも幾分か明るい口調で言う。 アスランはハッと目を開けると、藁にも縋る思いでマリューを見つめた。 「精神的なものもあるかもしれない、と担当の医師が言っていたわ」 精神的なもの? 高い、高い屋上から、一気に落とされたような気分だ。 アスランは再び瞑目した。 もしも精神的なものが原因の一つなのだとしたら、事故よりも尚更悪いではないか。 「あ、ごめんなさい。病人に、言うべきことではないわね」 アスランの辛そうな様子に気付いたのか、マリューは申し訳なさそうにそう言うと、アスランの脇の下から体温計を取り出した。 「少し、熱が高いわね。まだ動けないでしょうけど、くれぐれも安静に。何かあったら、ナースコールを鳴らしてください」 マリューは手早く体温計を片付けると、アスランの枕元にナースコールを置いて、病室を後にした。 残されたアスランは寝ることもなく、ただ先程のマリューの齎した情報を頭の中に反復させていた。 キラは、自分のことも覚えていないのだろうか・・・・・? そんな考えばかりが、頭の中に浮かぶ。 自分は、キラを守りきれなかったのだろうか。 コツコツと小気味よい靴音が、静かな病院の廊下に響く。 それがしばらく続いた後、ある病室の前でぴたりと止まる。 コンコン、と軽くノックをすると、中から女性の高めの声がかかる。 ガララ・・・とゆっくりとドアをスライドさせて中に入り、後ろ手でドアを閉める。 中にいる女性は、鳶色の肩まで伸ばした髪を結いもせずに垂らし、アメジストと同等の輝きを持つ瞳は、不思議そうに今入って きた男を見つめていた。 「・・・あの、どちらさまでしょうか?」 少し躊躇する素振りを見せてから、男の顔を窺うように尋ねた。 「ああ、急に来てすまない。俺はイザーク・ジュールだ。・・・・・やはり、覚えていないんだな」 眉を顰めてそう言いながら、ベッドの傍らの椅子に腰掛ける。そのちょっとした動作でも、イザークの育ちのよさが窺える。 「え、あ・・・すみません。なんだか、記憶・・・ないみたいで・・・・・」 まるで人事のように苦笑する彼女に、イザークの表情が険しくなる。 「・・・キラ、もう具合はいいのか?」 突然呼び捨てで呼ばれて一瞬目を丸くするが、すぐに笑んではいと頷く。 「もう大丈夫です。その、記憶意外は正常ですから」 「・・・・・そうか。お前とは大学からの付き合いでな。俺の後輩に当たる」 難しい顔をしたままそう言うイザークを、キラは不安そうに見つめながら先の言葉を待った。 「会社も同じで、俺と同じ部署だ。退院したら、今までの分、きっちり働いてもらう」 キラの揺れる瞳を見て、イザークはほんの少し表情を和らげた。 「あ、はい!よろしくお願いします!!」 イザークの突然の微笑みにドキリと心臓が飛び跳ねた気がしたが、キラは気にせず頭を下げた。 「ああ。こちらこそ」 キラは、自分の頬が赤くなっていることに気付いているのだろうか。 今まで、自分にそのような表情を向けられたことは一度たりともない。 今はまだ寝ているであろう後輩兼上司に優越感を覚えつつ、イザークは更に顔を綻ばせた。 「あ、そういえば、イザークさん?」 何か思いついたようにまた表情を不安げにすると、キラはイザークに問いかけた。 「気を使わんでいい。二人でいる時は、呼び捨てで構わん」 「え?あ、はい。あの、イザーク?」 イザークが腕を組みながら気にした風もなく淡々と言うと、キラは躊躇いながらも言う通りにした。 「なんだ?」 「ぼ・・・じゃなくって、私を助けてくれた人って、もう大丈夫なんでしょうか?聞いたら、ぼ・・・私より重傷だとか。 それに、未だ意識が戻らないみたいで・・・・・」 キラは慣れないせいか、何度も一人称を言い直す。その姿が可愛らしくて、イザークは思わず噴出してしまった。 「いや、すまない。あいつは大丈夫だろう。そう簡単にくたばるようなヤツじゃないさ。それより、気を使うなと言った だろう?」 苦笑を浮かべて答えてやると、キラは不思議そうに首を傾げた。 「一人称だ。俺の前では、好きにしていい」 自分の言葉に、独占欲丸出しだな、などと思いながらも、これは本心から出た言葉だと割り切って話す。 「すみません。なんだか、癖みたいで・・・・・。変、ですよね?女が『僕』、だなんて」 困ったような笑顔を浮かべて自嘲するキラはやはり可愛くて、イザークは抱きしめたい衝動に駆られた。 だが、後輩兼上司が寝ている間に、そいつの女を奪うほど、自分は落ちぶれてはいない。 「そんなことはない。人それぞれだろう?」 普段は滅多に見せない、余所行きのものではない自らの笑顔をキラに向け、優しく囁く。 キラは顔を真っ赤にし、コクリと小さく頷いた。 イザークはそれを見届けると、自分のカバンに手を突っ込んだ。 突然のイザークの奇行に、キラは不思議そうに彼の手とカバンを見つめた。 すると、カバンの中から見るからに美味しそうな真っ赤な林檎と、果物ナイフが取り出された。 キラはますます首を傾げるばかりだ。 「あの・・・・・?」 「見舞いに手ぶらじゃ、男が廃る」 そう言ったきり口を閉ざして林檎の皮を剥く彼は面白いほど真剣で、キラの心臓はバクバクと音をたてて鼓動していた。 「ほら」 そう言って、一欠けら林檎に楊枝を刺すと、イザークは顔を赤らめながらキラに差し出す。 「ありがとう、ございます・・・」 心底嬉しそうに礼を言うと、差し出された林檎を受け取り頬張る。 シャリ、と音がしたかと思うと、仄かな甘味が口内に広がった。 「とってもおいしい!」 にっこりと満面の笑みを浮かべてそう漏らすキラは、本当に可愛い。イザークの頬は自分でも恥ずかしく思うくらい紅潮 していた。 「そ、そうか。それは、よかった」 自分の今の顔を見られたくなくて俯かせると、心配に思ったのかキラが覗き込んでくる。 「イザーク?どうかしたんですか?」 突然間近に迫ったキラの気配に更に頬が赤くなり、心臓も暴れ始める。 「い、いやっ!なんでもない!!気に、するな」 「そうですか?なら、いいんですけど」 どぎまぎしながらなんとかそう言い終えると、キラも納得したのか元の位置に戻る。 「・・・・・キラ」 ようやく自分が落ち着いてきたので、先程から気になっていたことを言おうと口を開く。 「敬語も、使わなくていい。聞いているこっちが疲れる」 どこか悲しそうに、辛そうにそう言うイザークの言葉を無碍には出来ず、キラは頷くことしかできなかった。 「はい・・・あ、うん」 それを聞くと、安心したように微笑むイザークは本当に、幸せそうで。 「林檎、もっと頂戴?」 こちらまで幸せになれそうで。 「ああ。味わって食えよ」 自分でも気付かないうちに、心のドアが開いていた。 気分転換にとマリューに誘われ、車椅子に乗って散歩をしに外へ出た。 散歩といっても歩けるわけではなく、終始マリューが車椅子を押してくれていたのだが。 病院の庭を一回りして病院内に入ると、マリューは用事があるとかで、アスラン一人病室に向かわせた。 ここ数日で車椅子の動かし方を覚えたアスランは、タイヤを回しながらエレベーターを目指す。 目的の階に着いて降りると、見慣れた病棟。 アスランはそのまま病室に向かって進み続けた。 折角一人なのだからと、普段とは違う道を通って部屋を目指す。 初めて通る、道。 そういえば、キラはアスランと同じ病棟にいるにも関わらず、一度も姿を見ていない。 この辺りにいるのだろうか。 そう思うと、会いたいという気持ちが募る。 まだ四、五日程度しか経っていないのに、心が落ち着かない。 キラが記憶喪失だと聞いて、あまり実感が湧かなかった。 自分だけは、覚えていてくれている。そう、信じて。 しばらく進むと、聞き慣れた声が耳に届いてきた。 「キラ、もう出歩いていいのか?」 それは自分の先輩であり、会社の部下でもある男のもの。 アスランはその男、イザークが言った言葉の意味を悟り、声のする方へと近づく。 「うん!怪我なんてほとんどないし、全然大丈夫だよ」 明るい声と共に部屋から出てきた女性は、鳶色の髪と紫水晶の瞳が印象的で。 「キ・・・・・ラ・・・・・・・・・?」 アスランの口から無意識のうちに彼女の名前が零れ落ちた。 その小さな声に気付いたのか、それともなんとなくなのか、キラはアスランの方を振り向いた。 途端、アスランの心臓がどきりと跳ね上がった。 キラは、ただ呆然と動かないまま口を閉ざしているアスランを不思議そうに見つめている。 そして。 「え、と・・・・・どちらさま、でしょうか?」 胸が、痛い。 キリキリと、締め付けられるような、痛み。 「どうした、キラ?・・・・・アスラン?」 遅れて出てきたイザークの訝しげな声も、耳に入っては来なくて。 ただ、キラを凝視するだけのアスラン。 痺れを切らしたのか、再び口を開いたキラ。 「あ、もしかして僕・・・・・私の、知り合いの方、ですか?」 キラの言葉遣いが、より一層二人の距離を強調して。 言葉を発することさえ、苦しい。 「・・・アスラン・ザラだ。ほら、お前を助けた・・・・・」 沈黙があまりに長いので、イザークはキラに助け舟を出した。 「あ、そうなの!?ごめんなさい!お見舞いとか、全然行けなくて・・・・・。助けていただき、本当に、ありがとうござい ました!!」 イザークの助言にハッとしたように頭を下げて礼を言ってくるキラ。 「・・・・・・・・・・いや」 やっとの思いで絞り出した声は自分でも情けなくなるくらい暗くて、思わず顔を背けてしまった。 キラは不安そうにしながらもイザークに促されるまま、その場を後にした。 彼らが去ってから、また視線をそちらに向けて。 「・・・・・・・・・・・・・・・キラ、君は、本当に」 記憶を失くしてしまったんだね。 |
PHOTO BYかぼんや