太陽の沈み掛け、東から西にかけてのグラデーションが、最も美しい時。 遠くの方に一番星を見つけた子供が、母親と思しき女性に手をひかれながらそれを指さしている。 その親子に見向きもせず、これから夜になるというのにすでに宵闇をその頭部に持ち、まるでまだ生まれて間もない若葉のような エメラルドグリーンの瞳を不安げに揺らしながら、早足で横切る男がいた。 彼の名はアスラン・ザラ。 ピンと伸びた背筋に、どこか高貴な立ち居振る舞いを感じるが、その実彼は一般家庭の生まれである。 それでも気品を感じさせる彼に、近寄る女性は少なくない。だが、彼にとってそれは望ましいことではなかった。 何故なら、彼には既に配偶者の予約席を与えた相手がいるのだから。 そして今まさに、その女性のもとに向かっているのだが、しかしアスランの瞳は不安に溢れている。 それは偏に、先刻の彼女からの電話故であろう。 仕事中にかかって来た電話。アスランが通話ボタンを押したと同時に、キィン・・・という音が耳鳴りを誘うのも気にせず、受話 器の向こうの彼女は『アスラン大変なの、助けて!!!』と叫んだのだ。 こう言われては、心配せずにはいられないではないか。 その為、徒歩通勤であるアスランは、彼女の家から歩いて一時間もかけ、ここまできた。最早目的地は近い。 靴音を鳴らして近づく度に、大きくなって行く彼女の住まい。 いつの間にかアスランは、走りだしていた。 二階建てのアパートメントの階段を、カンカンと音を立てながら上り、一番奥の彼女の部屋に一直線に進む。 そのドアの前に立ち、アスランはインターホンを鳴らした。 ピンポーン・・・という音が、中に響いているのが聞こえて、アスランの焦燥感を更に増幅させた。 やがて、バタバタバタ・・・という忙しない音がしたと思えば、それが止んだ次の瞬間、勢いよくドアが開け放たれた。 「わ、アスラン!!わざわざ、来てくれたんだ!!」 しかしそこに在ったのは、輝かしいまでの笑顔で愛しい恋人が来てくれたことへの喜びを余すことなく表している、アスランの配 偶者の予約席保持者基キラ・ヤマトであった。 その笑顔のどこにも、先刻の電話での不安げで緊迫感溢れる様子は見受けられない。 「キ・・・・・キラ?」 思わず頭の回転をストップさせてしまったアスランは、不思議そうに首を傾げているキラに声を掛けた。一体、何があったのか と。 「ああ、まあ取り敢えず入ってよ」 一瞬目線を泳がせたような気がしたが、アスランは敢えて見なかったふりをした。ここで立ち止まっていては、進む話も進まな くなる。 そうしてアスランは、恋人の部屋へと入って行った。 猫の行方 キラ・ヤマト。彼女は今一人暮らしをしている。 実家が職場から遠く離れているので、ここに住むことにしたのだ。 この場所に来て、就職した会社で働いているうちに出会った、アスラン。 アスランはキラの働く会社の取引先で働いている。 アスランとキラとの出会いは、彼女の会社にて会議が開かれることになり、その時お茶出しをしたのがキラだった、というわけ だ。 最初に声を掛けたのは、意外にもキラの方だった。 『あの、こぶ茶と紅茶と緑茶、どれがいいですか?』 まさかこのような質問を、その場にいる全員に問う訳もなく、突然現れた、まるでどこかの国の王子様のような人に一目惚れを し、こんなチャンス滅多にないと思ったキラの、勇気の結晶だった。 『え、あ・・・じゃあ、こぶ茶で』 対するアスランもまた、キラに一目惚れした。一応述べておくが、キラと同じようにどこかの国のお姫様のような人だと思った わけではない。まあ、実際そのくらいの美しさを持っているが。だがアスランはキラのことを、まるでお人形さんのようだと心の 中で評していたのである。はっきりいって、どっちもどっちである。 ところでアスランが何故こぶ茶を選んだかというと、ただ単に、以前親戚の結婚式で飲んだこぶ茶をもう一度飲みたいと思った からだった。 そこら辺のスーパーで簡単に変えるものだが、アスランの中でこぶ茶は祝い時のお茶だと断定されているので、今がその時と思っ たのだろう。 そんなことに思いを馳せていると、目の前にコトリという音と共に麦茶の入ったコップを置かれた。 それに漸く我に返り、アスランはキラに視線を向けた。 「あの電話、一体どうしたんだ?」 その言葉にキラは、何故かビクリと肩を揺らして、サッとアスランから目線を外し、あらぬ方向を見た。 やはり先程目線を泳がせたのは気のせいではなかったのか、と確信し、アスランは急かすようにキラ・・・と彼女の名を呼んだ。 それに観念したのか、キラは深い溜息を吐き、ソロリとアスランに視線を戻した。 アメジストのような輝きを持つその瞳に見つめられると、アスランの顔は赤くなる。それが常であるが、今はキラのいつになく 真剣な表情に、その様子はない。微塵も、というと嘘になるが。 「えっとね、あの、実は・・・・・」 いつまでも言葉を濁し続ける気か、とアスランも痺れを切らそうとした、その時。 「みゃーう」 どこからか、猫のような動物の鳴き声が聞こえてきたような気がした。 いや、気のせいだ。ここは仮にもアパートメントである。当然、ペットは禁止。もしかしたらベランダに、猫が迷い込んできた のかもしれない。 そうアスランは自分に言い聞かせ、キラの話を聞こうとしたが、何故かキラは炬燵の中を覗いていた。 そしてあろうことか、炬燵に手を突っ込んだのだ。 「キ、キラ!?」 思わず声を上げてしまったアスラン。しかし次の瞬間、彼は完全に言葉を失った。 「みぁう」 キラの美しい両手に脇を抱えられ、手足をぶらりとさせている、漆黒の艶やかな毛並みにこれまた珍しい深紅の瞳をした子猫が、 いた。 「・・・・・・・・・・」 絶句するアスランとは裏腹に、キラは困ったように微笑んで、口を動かした。 「実はね、ルナからこの子預かったの。アスランも知ってるでしょ?僕の学生時代の後輩」 アスランは未だ項垂れているが、キラにとってはお構いなしだ。 そのことに気付いたアスランは、気を取り直して、取り敢えずキラの話を聞くことにした。 「ああ、聞いたことはある。ていうか、この前会ったばかりじゃないか」 そう、一か月前ほど、合コンの人数合わせに付き合わされたのだ。その時はキラも一緒だったからよかったが。否、よくないか。 「そうなの。それで、なんか一週間旅行に行くとかで・・・」 「預かってくれ、と?」 キラの続けんとした言葉をアスランが継ぎ、次いで深く長い溜息を吐いた。 「ここはアパートだぞ?猫は鳴くし、近所から苦情が来るぞ?」 額に手を当て、アスランは溜息交じりにそう言った。 しかしキラは悪びれる様子もなく、子猫をそっと抱き抱えた。 「うん。だから、アスランに助けを求めたわけ」 ニコニコと笑顔を絶やさないキラ。その笑顔を見ていたからこそ、アスランは思わず今の状況を忘れて見惚れてしまった・・・ わけではない。まあ、それもあるが。実際はその言葉に固まった。 「・・・・・・・・・・はあ!!??ちょっと待て。なんでそこで俺が出てくる?」 暫しの沈黙の後、アスランは叫び声を上げた。それにキラはうるさいなあと返し、だって・・・と言葉を続けた。 「友達、皆マンションとかで暮らしてるんだもん。一軒家と言ったら、アスランの家しか思い浮かばなくて・・・」 「だからって、俺の家にも事情ってものがあるだろう?」 それは考えなかったのか?そう問えば、キラはシュンと肩を落とし、俯いた。これには弱いアスランは、困ったように眉尻を下げ てごめんと謝った。 「でも、猫は無理だよ、いくらなんでも」 「・・・・・なんで?」 小さな問い返しに、アスランは小さくため息を吐いた。 「このことは、本人からは口止めされているんだが・・・・・」 突然、アスランの目の色が変わり、場の空気が緊迫感で張りつめて来る。 ゴクリ、と固唾を呑み込んで、キラはじっとアスランの言葉を待った。 「・・・俺の父は、猫アレルギーなんだ」 まるでさも重い病気か何かにかかっていて、猫のような生き物をそばに置いておくと命に関わるのではないかとまで予想させる程 重苦しい空気だったのにも拘らず、今のアスランの言葉は一体何だ。猫アレルギーか。 「・・・・・・・・・・は?」 そんなギャップにも、キラの反応は一理あるというものだ。 「だから、父は猫アレルギーなんだって。あの人、あんな顔して恥ずかしがり屋だから、こういうの隠したがってて・・・・・」 先ほどの空気とは一変、キラはあきれ果てたような表情で、アスランを見ていた。 「・・・・・今アスランのお父さん出張でいないじゃない」 こんなことで食い下がるのはなんだか腹の虫が納まらないので、キラは反論することにした。 「いや、帰って来た時くしゃみ連発で困るのは俺だ」 確かに、ソファなどについた猫の毛により、アスランの父親であるパトリックの鼻腔を擽るのは目に見えている。が、キラは諦め なかった。 「掃除すればいいじゃない」 「掃除って言ったって、限度があるだろ?第一、父が帰ってくるの、明後日だぞ?一週間は無理だよ」 キラの言葉にそう返したのが運のツキ。 「じゃあ、明後日までは預かっててくれるってことだよね?わ、ありがとうアスラン!!今度何か奢るよ!!あ、この子の名前は シンって言うの。可愛がってあげてね!!」 「え、あ、ちょ、キラ!?」 アスランの反論も聞く耳持たず、キラは言葉を続ける。 「これがトイレで、これがごはん。あ、足りなかったら買っといてだって。後でお金はくれるみたいだよ?それと、これがブラ シ。毎日お風呂にいれてあげて」 「はあ?猫の癖に風呂なんて入るのか!?普通猫って、嫌がるんじゃ・・・」 「ところがこの子、お風呂が好きなんだって。毎日入ってるみたい」 最早討論している内容がずれてきているようだが、本人たちはそのことに気付いていない。否、アスラン自身、もう猫を預から なくていい方法を考えるのが無駄だと思えてきたので、諦めたのだが。 「あ、あとこれバスケットね。これに入れて運んであげてね。くれぐれも、外に出さないようにって」 「なんで?」 「外に出すと、雀とか取ってきたりして野生に戻っちゃうから」 「調教したのか?」 「まさか。そんなわけないじゃない」 そんなことを数分話し合い、アスランは仕方なく子猫を入れたバスケットを持ちキラの部屋を後にした。 初めて猫を預かると言っても、飼うことになったアスランは、四苦八苦しながら世話をする。 嫌々いいながらも、きちんと世話をするあたり、どうやら猫は好きらしい。 だがそれを良しとしない、子猫一匹。 トイレ掃除の最中にトイレの砂を引っ掻き回すわ、餌箱はひっくり返すわ、終いには壁やソファで爪を研ぐわと、なかなかにやん ちゃな子猫であった。 今日で三日目。世話をする最期の日となった。 本日父パトリックが帰ってくるので、早めにキラに返して掃除しなければならない。 だが、そう思案しているうちに、何故だか開くはずのないドアが開いて、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。 「只今帰ったぞ」 その声に、アスランは慌てて子猫と猫セット一式を自室へと詰め込んだ。爪の研ぎ跡は、ご愛嬌である。 「お、お帰り」 引き攣った笑顔でそう言い、アスランはそそくさと部屋に戻って行った。 それを訝しんだパトリックは、あろうことかアスランの部屋まで行き、コンコンとノックをし、返事を待たずに扉を開けた。 その瞬間、パトリックの足もとにすり寄る、一匹の子猫。 突然のことに固まるアスランをよそに、驚くことにパトリックはその子猫を抱き上げて見せた。 「ほう、可愛いじゃないか。アスランもまだまだ子供だな。どうせそこら辺に捨ててあったこの子を、可哀想と思って連れてきた のだろう?」 珍しい深紅の瞳を覗き込みながらアスランに問うパトリック。 その様に一番驚いたのは、勿論アスランである。 「え、いや、違いますよ。その子はキラの後輩が預けて行った子で・・・。ていうか、大丈夫なんですか?」 律儀にも父の問いに答えたアスランは、次いで彼に質問した。 「大丈夫、とは?」 問い返してきたパトリックに小さな苛立ちを覚え、アスランはほんの少し声音を低くした。 「確か、猫アレルギーじゃありませんでした?」 その言葉をきいたパトリックは、驚いたように眼を丸くしてアスランに視線を向けた。 「そんなこと、言ったか?」 アスランの思考回路が、完全に停止した瞬間だった。 それと同時に、アスランは過去に思いを馳せる。 そう、それはアスランがまだ小学校低学年の時。 先程パトリックが言ったように、道端に捨てられた子猫を可哀想と思って連れて帰って来た日のこと。 その時パトリックはこう言った。『残念だが、私は猫アレルギーでな。猫と生活していると、くしゃみが止まらんのだよ、アスラ ン。だから元いた場所に返しておやり』と。 そして泣く泣く子猫を元いた場所に返し、家に帰って来たアスランに、こうも言った。『いいかいアスラン。私が猫アレルギーと いうことは、誰にも言ってはいけないよ?』。 そう、今思えば、あれは子供心にまだほんの少し我儘な時期の子供を納得させる、手段だったのだ。 まさか今の今まで騙されているとは、自分も甚だ純粋な人間だ。 「・・・・・・・・・・いえ、いいです、別に。何でもありません」 その後結局一週間預かることになった子猫シン。 パトリックが帰ってきたからは、彼がシンをお風呂に入れていたそうだ。 そうして子猫の別れの時。 一番泣いたのは、パトリックだったそうだ。 アスランはその横で、呆れたように溜息を吐いていたという。 キラはというと、その様を微笑ましげに眺めていただけだったそうだ。 それから一か月後。 アスランの家には、子猫が一匹いる。 名前は、イザーク。 銀色の美しい毛並みに、どこか冷たささえ感じさせるアイスブルーの瞳。 パトリックの部下の人が、子猫の里親を探していたのだそうだ。 その為、ザラ家で飼うことになった次第である。 ザラ家は今日も、にぎやかである。 あとがき アスラン、誕生日おめでとう!! そしてこの短編には、他のいろいろな企画も含まれていたりします。 50000hitとか、休止中祝えなかったキャラの誕生日とか。再開しても祝えなかったキャラとか。 サボり過ぎでほんと申し訳ないです。 でも取り敢えず、皆おめでとう!!!!! |
Photo by 13-Thirteen
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